ガソリン沼とセメント沼 その1/ガソリン沼:『RUSH ラッシュ/プライドと友情』編

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先行公開まで加味すれば、奇しくも同じ日に封切られ、前評判通りの傑作ぶりで絶賛を集めている二本の映画『ラッシュ』と『新しき世界』。共に争い、すれ違い、理解し合う野郎どもの精神面における共鳴と咆哮と慟哭を描き出しているその物語は、艶やかな男たちの関係性に激しく萌え上がる一部の業深き映画ファンにとって、 

「ハマったら抜け出せない沼」

のような深みを湛えており、作品の色合いを決定づける題材、スタイル、ガジェットの特徴から、それぞれ「ガソリン沼」「セメント沼」と呼ばれています。

「抜け出せないと知っていて、どうして深みにハマるのか?」と問われれば「そこにいけめんがいるからだ」としか答えようがなく、そんな返答をした時点で、大抵の人間は「へ…へぇ」と呆れ顔のまま後ずさりしていくのですが、そこはちょっと待っていただきたい。

同じように「底が見えないからこそ覗き込んでみたい」「足を踏み入れてみたい」という、仄暗い欲望を喚起する深淵の佇まいも、いざ浸かってみれば、水質・温度・粘度において大きな差異があるのでして、単純に「こう見える」という「沼」の「様相」だけ説明して興味を持ってもらったらゼンゼン体質に合わないものだったとなれば、お勧めした人間として、大変申し訳なく感じるワケです(←ドン引きされてる時点で、その心配はありません)。

ということで、東京を白く染め上げた雪の名残が舗道に残る二月十二日、「こう寒くちゃやってらんねえし、暖でも取るべい」と殆どスパ銭にでも行くような気分で再度二つの沼に浸かり、親愛、信頼、相互理解と疑惑、逡巡、衝突を反復する中で、相手の不在がその存在を一層強く意識させる地点にまで至る男たちの饗宴を堪能してきたのでありますが、その際に感じました双方の魅力やら差異やらを徒然語ってみようと思った次第です。 

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まずガソリン沼こと『ラッシュ/プライドと友情』ですが、本作はニキ・ラウダジェームズ・ハントという実在のF1ドライバー二人の六年間に渡るライバル関係、そのハイライトとなった1976年のグランプリを題材とした作品になります。

レース映画といえば、『栄光のル・マン』や『グラン・プリ』から『デイズ・オブ・サンダー』『ドリヴン』『デッドヒート』まで数知れず。SF的な色合いを帯びた作品なら『デス・レース』や『マッハGoGoGo』を映像化した『スピード・レーサー』、コメディなら『キャノンボール』シリーズや『チキチキ』の元ネタになった『グレートレース』と、枚挙に暇がありません。本作がそうした中で異彩を放っているのは、意外にも群像劇や青春ドラマ的な味付けのなされることが多い当該ジャンルの映画において、他の連中などまったく見えん!と断言するかのごとく、二人のレーサーだけにスポットを当てている点でしょう。

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徹底的な走り込みと問題点の論理的な解決によってマシンの性能を高め、沈着冷静に上位を狙う職人気質のラウダに対して、行き当たりばったりのレース展開で浮き沈みも激しい反面、与えられた車のパワーを瞬時にして最大限引き出す直感力にかけては、右に出る者のいないハント。ドライバーとして正反対の性格を有する二人の男は、その生き方においても、リスクを回避し、着実に手続きを踏んでいく計画派/プレイボーイとして瞬間の享楽を謳歌する自由奔放で感情的な無頼派と、真逆の道筋を歩んでいますが、自身の道を塞ぐものに対して抗う反骨心と負けん気の強さでは、相似とも言えるほどの共通点を持っているようにも思えます。

相反する特性を持ちながら根幹の部分の酷似ゆえ反発し、反発するがゆえ互いを強く意識して一層密に引きつけ合っていく。磁石の双極を目まぐるしく入れ替えながら激しくぶつかり合うような男たちの姿は、まさに「好敵手」と呼ぶに相応しく、カーレースものという共通性から自分の世代が慣れ親しんだ作品では『よろしくメカドック』の風見潤那智渡や『サイバーフォーミュラSIN』のブリード加賀と風見ハヤトの関係なんかを思い出したりしたのですが、映画自体がそこから更に「ライバルの存在意義」「そうした相手がある生の充足」まで視座を広げているところは、『ヒート』におけるパチーノとデ・ニーロ、『デュエリスト』のカイテルとキャラダイン、レース漫画の変奏バージョンでいえば『モンキーターン』の波多野と洞口を描く筆致などの方が近いかもしれません*1

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面白いのは、この二人が何かにつけて張り合うことなんですよね。レーサーならば着順こそが全てであって、他の部分の優劣なんて知ったことじゃない。そんなことはラウダとハントも分かっていて、一応は「ドライビングテクニックがああ」だの「マシンのチューンがこう」だのから会話が始まるんですが、交わされる言葉の端々には常に相手の容貌や考え方、暮らしぶりへの皮肉や揶揄が滲んでいます。根っこの部分の同一性を無意識に理解しながら、その共鳴を感じるからこそ自分にないものを持ち、正反対の人生を歩む相手に対して嫉妬と羨望を抑えきれず、やがてはそれが己自身の「生き方」をも規定していく。そんな双方の差異が「レースの結果」という明確な形で示されるフィードバックによって、「俺はアイツと違う道を行く!」という彼ら自身の足取りは一層強固に、一層意固地になっていきます。

敵愾心を燃料に「走ることを生業とした者の性」とばかり、人生のあらゆる面で相手の前に出ようとする二人の競り合いは、モータースポーツという競技の駆り立てる競争原理に生の全てを束縛されているようでもありますが、裏を返せば「職業」を「自我」として完全に内面化できている、アイデンティティに揺らぎのない人間同士だからこそ生じるコンフリクトであり、それを悲愴より清涼感の強いタッチで描き出しているところに、観る者は強い憧憬を抱くのでしょう。

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映画は「競技上の直接対決」を割愛することで「彼らの人生そのものをレースに見立て」ながら、その着順の先後を巡って激しく火花を散らす男たちの周辺事情まで過不足のない描写で拾い上げていきますが、不慮のアクシデントを経てラウダが奇跡のカムバックを遂げるシーン以降、この「清々しさに溢れた」トーンが決定的になります。

ライバルの事故に対する己の責任を感じ、内心に芽生えた復帰を望む気持ちを無骨な形で表現したハントと、生死の淵で目撃した彼の躍進を己の生きる原動力としたラウダ。

いつの間にか互いの存在こそが自身の活力の源となっていたことに気付いた二人が直接対峙して、そのことを言葉で、目線で、礼と礼で伝え合った瞬間、生涯の宿敵は「己の魂の片割れ」となり、歩んできた正反対の道のりに対しても相互の理解と許容が生じます。それまで描かれてきた拮抗と衝突の全てを包括して「正」の方向にギアを入れ替える、このオプティミズムとポジティヴィティには、比較対象として上述した作品の中に該当するジャンルが含まれる通り、やはり「少年漫画」的な熱いテイストを感じました。

己の中に眠っていた競争心を呼び覚ますスピードの魔力、車を自分の体の一部としていく工程に伴う幼年期の玩具遊びにも似た高揚感…大の男を童心に立ち返らせる熱狂を内包したカーレースという種目は、ハントとラウダも劇中のキャラクターとして登場する『赤いペガサス』や『サーキットの狼』の時代から、漫画・アニメにおいても繰返し取り上げられる題材となりましたが、本作はそうしたエッセンスを色濃く受け継ぎながら、そのジャンルにおいて必要不可欠な要素である「宿敵の存在」が照射する「人生の輝き」の段にまで踏み込んだ点で、少年漫画の世界を「成熟した大人の視点」から更に一歩先へと推し進めた作品だと言えるのかもしれません*2

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「上手いなぁ」と思ったのは、実話ベースの制約を受けるがゆえ、最後の最後で二人の激突が「直接対決」として結実しないフラストレーションを、別の方向に向けることで非常にエモーショナルに見せている点でした。「危険過ぎる」という理由でラウダがレースをリタイアしてしまったために、ハントは3位以内に入ればワールドチャンピオンの栄冠を手にすることとなり、サーキットを走るマクラーレンチームとモニターを見つめるフェラーリチームの間には、鍔迫り合いのように静かな緊張が生まれてきます。ところが、前を走る車を次々抜き去っていくハントのマシンを見守るラウダの表情は何処か嬉しそうに見えるんですよね。

自分が降りてしまったレースに、正反対の生き方を歩むお前こそ、勝利してみせろ
俺が果たすことなく終わったものを果たして、その先にあるものを見せてみろ
そうすることで、俺にもまた新しく『生きる糧』が生まれる

長い年月を経て互いに認め合った友の栄光を願い、密かに後押しするような「共闘」の色合いと「やれるものならやってみろ」と挑みかかるような「挑発」の色合いが混じり合い、この最終レースは主人公二人が直接的に交わらないにも関わらず、クライマックスに相応しい高揚感に満ちていました。

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初見の折には、実際のレースにおける二人の「タイマン」シーンが少なく、最終決戦においてもライバル同士の決着が明確に描かれないことを不満に感じたのですが、一瞬の狂熱に完全燃焼したハントと愛する者のために勝負を降りたラウダ双方の生き方を共に肯定するようなカタルシスは、競技における優劣よりも彼らの人生そのものに注視して、通常ならレース終了後に置く相互理解のシーンをその前に持ってくる構成がなければ、生まれなかったものでしょう。F・X・トゥールが残した「ボクシングは人生の縮図と言われるが、私には人生こそボクシングの縮図に思える」という名言を、この映画はまさにモータースポーツで実践しているように思います。 

作品は去っていく盟友への哀歌のような余韻を残して幕を閉じますが、その郷愁と懐古にも振り返ることなく、前へ前へ進み続けようとした「青春の日々」の全てを愛でるような趣が滲み、今でも前進を続けている主人公の姿勢が際立つ辺り、何処までも少年漫画の描く「憧憬」の続きのようでもありました。

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率直に言えば、自分がこの沼に沈みきらないのは、こうした「あまりの清々しさ」が理由でもあるんですよね。互いに刺激し合い、高め合い、認め合う境地に至ったからこそ、歩み寄ったりもたれかかったりせず、「またいつかどこかで会おう」とばかり踵を返し、相手と違う自身の道のりを一層力強く歩んでいくーそんな男たちの背中には、自らの生に対する悔恨の念も、それを観る者に「違う形で出会っていたら…」と思わせる夢想の余地もありません。

常に自信に溢れ、誇り高いその姿が感じさせるカラリとした陽性、マシンと一体化することで、己の肉体を包む前進運動そのものを内面化したかのごとく悔いも躊躇も残さず、ひたすら前に進んでいく生き様は、漫然と日々を過ごす中、形にならない鬱屈を心の中に蓄積していく凡庸な人間にとって、とても眩しく映るけれど、その開始地点からして自分とは異なる在り方だからこそ、手が届かないと分かっていてなお、触れてみたくなるもので。その煌めきは逆に自らの矛先すら見失った暗い想念を重ね合わせて、現実で味わえな切実と切迫を疑似体験できる話を期待してしまう我が身の矮小さを痛感させて「自分にはこういう生き方できないなぁ…」という感慨に浸らせてしまうのでありました。

双方の共振が調和に至る6年間のプロセスを余すところなく拾い上げた丁寧な語り口が、かえってその筆先からこぼれ落ちてしまったものを想像させてくれないのも、後ろ髪を引くような余韻を残さない理由の一つでしょう。まさしく「少年漫画の世界におけるライバル同士」であった二人の男の、あまりに爽やかでスポーツマンライクな在り方と、それを過不足のない描写で見せていく鮮やかなストーリーテリングには、「ブロマンス」とか「やおい」と言われる類の妄想を差し挟む余地がなく、要は「二次創作脳」が刺激されないのですね*3

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とはいえ、それはラウダとハントの関係性が劇中で完全に描き切られていることの証でもあり、思い返すたびに「良くできた映画だったなぁ」という実感を新たにします。レースそのものよりも対極に位置する人間同士の相違と相似に注視したピーター・モーガンの脚本、実際のレースシーンを迫力のある映像で切り取ったアンソニー・ドット・マントルの撮影、劇中の二人同様、デッドヒートを繰り広げる二つの要素を一つの作品内に定着させたハンス・ジマーの劇伴…各種要素の臨界点を物語のピークに持ってきたロン・ハワードの「無難な」手捌きは、本作において見事「美点」に転じています。

―――ひとたび着火すれば一瞬にして燃え上がる―――

『バニシング IN TURBO』や『バックドラフト』の時代を思わせる、まさにガソリンのような粘度と暑苦しさに満ちた題材を、疾走感溢れるタッチで「潔く」仕上げてみせたその語り口までひっくるめて、ズブズブにハマりきらないサラリとした浸かり具合が、むしろクセになる「沼」だったように思います。 

 

*1:上記作品群には、かなりペシミスティックなものもありますが

*2:アニメでは『マシンハヤブサ』や『ルーベンカイザー』『ガッタイガー』なんてのもありましたし、『グランプリの鷹』にもラウダをモデルにしたキャラクターが登場しましたね

*3:少年漫画にもそうした需要があって、大変な賑わいを見せていることは承知していますが